句解説
佐和山城は北近江を統治するための城として長らく使われており、浅井長政の居城の小谷城の支城の一つでもあり、浅井氏滅亡後は織田信長の家臣丹波長秀の居城でもあった。
その後、石田三成が入城した際に荒廃した佐和山城を大改修して5層の天守閣を山頂に築き上げた。
「光成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城』と言わしめたほどに豪華な見た目であったが、城内の造は極めて質素で城の居間なども板張りで壁もあらかべのままであり、庭園もありきたりなものだった。
政務のために伏見城にいる事が多かった石田三成だったので、実際に城を任されていたのは父の政継であったとされている。
掲載小説
『正継さんだって愚痴りたい』
彦根市内で多種多様な事業を展開する『彦根カルチャーストーリー』という会社に勤める大谷春継は愚痴を聞くことを仕事にしていた。
ある日、社長の笑田(えむだ)から紹介された仕事はとある偉い人の愚痴を聞く事だった。
時は戦国時代、石田三成の父親・石田正継は様々な不満を抱えるが人に話す事ができずに困っていた。佐和山トンネルを抜けて「いざ、戦国時代出張へ」
「いざ、戦国時代出張へ」 | 「ファーストコンタクト」 | 「ただの村長に城代とか無理だから!」 | 「第一回報告」 | 「豪邸とか住みにくいだけだから」 | 「第二回報告」 |
「現代と戦国」 | 「武士としての仕事」 | 「元上司に文句とか言いにくい」 | 「第三回報告」 | 「石田家の禁制」 | 「京極高次という男」 |
「第四回報告」 | 「暗躍?する影」 | 「社長の思惑?」 | 「名前」 | 「足音」 | 「大谷吉継」 |
「戦という名の罪」 | 「こんな世界だから」 | 「人に話すという事」 | 「建前と本音」 | 「人の話を聞くということ」 | 「過去からの手紙」 完 |
句解説
彦根城の東北方向にある大洞山(おおほらやま)の中腹にあるお寺で日本三大弁財天の一つです。
彦根藩4代目藩主・井伊直興が魔除けと城の備えとして建立しました。
直興は将軍徳川綱吉から日光東照宮の修造総奉行に任命された事により、当時の最高の大工と呼ばれた甲良大工と繋がりがあり、弁財天の建立も依頼したようです。
商売繁盛を祈願する場所として有名です。
句解説
「いろは松」に沿った登城道の正面に佐和口があり、その桝(ます)形がたを囲むように築かれているのが佐和口多聞櫓です。佐和口は南の京橋口、西の船町口、北の長橋口とともに中濠に開く4つの門の1つ。表門に通じる入口として、大手の京橋口とともに彦根城の重要な城門の1つでした。重要文化財となっている佐和口多聞櫓は、佐和口に向かって左翼に伸びており、その端に二階二重の櫓が建ち、多聞櫓に連接しています。多聞櫓は長屋のような形が特徴的な櫓の一種で、「多聞」の名は戦国武将松永久秀(まつながひさひで)の多聞城(奈良市)で初めて築かれたことに由来すると伝えています。佐和口の多聞櫓は、佐和口の桝形を囲むように二度曲折する長屋となっています。この櫓の内部は7つに区画され、中堀に向って三角形「△」と四角形「□」の狭間(ざま)が交互に配置されています。現存する多聞櫓の右端は切妻屋根で不自然に途切れ、石垣のみの空地が広がります。 かつてこの地には二階二重の櫓門が桝形を見下ろすように架かってましたが、明治初年に解体されてしまいました。 空地はその名残りです。ちなみに桝形より右翼に伸びる長大な多聞櫓も同時に解体され、現在の櫓は昭和35年に開国百年を記念して復元されたコンクリート造りの建物です。佐和口多聞櫓の建立について詳しいことはわかっていませんが、彦根城がおおよその完成をみた元和(げんな)8年(1622)までには建てられていたと考えられています。 その後、明和(めいわ)4年(1767)に城内で発生した火災で類焼し、現在の建物は明和6年から8年にかけて再建されたものです。
句解説
多景島は彦根市の沖合6.5kmに浮かぶ周囲600mの小さな島で、島全体が日蓮宗見塔寺の境内となっています。
島を眺める方向によって多様な景色を見せる事でこの島名がついたとされています。
弥生時代から島そのものをご神体として古くから人々に崇められてきました。
見塔寺の『釈迦断食行像』は日本に一体しかない出山釈迦牟尼佛の座像が祀られています。
定期船以外での入島する場合、入島料が必要です。