句解説
今から460年以上前の室町時代後期(戦国時代)、当時北の京極氏と南の六角氏の領土の境目にあったのが肥田城でした。
城と言っても天守閣などはない平城でした。
京極氏は浅井長政の祖父である浅井亮政の下克上により北近江の実権を失います。
その後、亮政の子・久政(長政の父)が北近江の安定のため六角氏の臣下になりますが、浅井賢政(後に長政と改名)は肥田城周辺の国人を味方にするため調略をします。
この事実を知った六角義賢が自ら指揮を執り、1万5千人の兵を連れて肥田城に攻めてきました。賢政に賛同した肥田城主の高野瀬氏は籠城します。
このとき、だれの発案かは資料が残っていませんが幅23m、長さ6.3kmの堤防を築き肥田城を水攻めしました。
江戸時代の彦根藩藩士・源義陳が『日本最初の水攻め』と称しました。(実際は小規模ではあったが以前にもあった。大規模な水攻めは肥田城に対するものが初めてだった。)
堤防を築いて水攻めというと羽柴秀吉が毛利攻めに使ったものが有名だが、その水攻めの23年も前の話である。
堤防は雨や増えすぎた水の勢いで決壊し、結果としては六角氏側に被害を出したことで六角氏が撤退する事になった。
句解説
彦根城内にある馬屋です。
名前の通り藩主の馬などを常備していた場所で、国の重要文化財に指定されています。
『こけらぶき』とは屋根の作り方の技法のひとつで「こけら」と呼ばれる短く薄い板を何重にも重ねて作る技法です。
木造では再現が難しい曲線の屋根を作る事が出来ました。
書院や高級武家屋敷に多く見られる屋根の作り方です。
句解説
彦根では11月下旬に旧城下町の古い町並みを残す各商店街がそれぞれの趣向を凝らして『ゑびす講」と称して大売出しを行い、歩行者天国として開放され道路ではフリーマーケットや屋台などもくり出して盛況となっています。
ゑびす講は100年近い歴史があり1年間の商売を感謝して始めたもので、かっては『彦根のゑびす講は日本一』と言われたほどにぎわっていた。
琵琶湖の対岸からも船を出して買い物客が大勢やってきたと言う。農繁期を終えた人々が、正月用の衣類や調度などを求めて彦根に集まったのである。 ゑびす講は、本来、橋向町に今もある恵比寿神社の祭であったが、この祭に乗じて商店街が大売出しを行うようになったと考えられている。現在でも各商店街や振興組合の役員が正装して恵比寿神社にお参りした後に、ゑびす講が始まる。古くは「恵比寿講」と書き、彦根では「ゑべすこ」と発音した。
*写真は雪が降っているように見えるように加工しています。
句解説