句解説
大藪おどりは江戸時代初期に子どもの成長や豊作、大漁を祈願するため、お盆や祭りなどの時期に地元住民たちが踊ったのが始まりだとされる。かつては10種類以上の踊り方があったが、現在は手ぬぐい、傘、手の各踊りが伝えられている。1972年(昭和47年)に大藪おどり保存会が結成され、1993年に市無形文化財になりました。
句解説
明治11年(1878年)6月16日、現在の彦根市平田町の地に滋賀県下初の近代的な器械製糸工場である彦根製糸場(ひこねせいしば)が開場しました。明治初期に衰退していた彦根地域を立て直すために殖産興業と士族授産を図る必要性がありました。当時彦根に明治5年設立の官営模範工場である群馬県の富岡製糸場で技術を習得した旧彦根藩士の子女が多くおり、その状況を活かして旧彦根藩士を中心として計画されたのが彦根製糸場です。
滋賀県営のとして始まりましたが明治19年に旧彦根藩主家の井伊家に払い下げられ明治35年に閉場するまで井伊家がその経営を担う事になりました。設立後には近隣にも器械製糸工場が続々と設立されていき、その中でも滋賀県下有数の規模を維持し近隣の製糸場から職員の見学を多数受け入れており工場職員の育成の面でも重要な役割を担っていた。近代的な工場の先駆者として後進に刺激を与えただけでなく、地域の近代化をけん引した重要な存在でした。
句解説
中山道の鳥居本宿から米原方面に少し行くと山道に続く道があります。(この山道が中山道)
山道を曲がると視界が開けて琵琶湖と湖東平野を眺めることができたようです。
弘法大師が青年僧であった時、諸国を修行して歩いていたが挫折しそうになった時にこの峠を訪れます。
そこで白髪の老婆が石で斧を磨いているところに出会います。
青年僧は老婆に問い、老婆は『一本きりの大事な針を折ってしまったので斧を磨いて針にする。』と答えました。
この答えを聞いた青年層はハッと自分の修行の未熟さを悟り、恥じて修行に励み、のちに弘法大師になったと伝えられています。
その後、再び訪れた際に摺針明神宮に栃餅を供え、杉の若木を植えて、
「道はなほ学ぶる事の難(かた)からむ斧を針とせし人もこそあれ」とこの一首を詠んだと伝えられています。
その後、この峠は『摺針峠』と呼ばれるようになりました。
現在も摺針明神宮の社殿前にあり太いしめ縄が張られています。
また杉の真下に『望胡堂』という茶屋が残されていましたが、1991年に火災で焼失してしまいました。